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2009年の来日時、ヨーガジャーナルVol.8に掲載されたカウストゥッブ師のインタビューをまとめました。ぜひご覧下さい!
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幸福は
心の平安から
生まれる
If You Have Inner Peace,You Can Be Happy
Kausthub Desikachar
カウストゥッブ・デシカチャー師、幸福について語る
祖父は近代ヨガの祖とされるT.クリシュナマチャリア師、父は当代屈指のヨガマスターであるT.K.V.デシカチャー師という由緒正しい伝統の中で育ったカウストゥッブ・デシカチャー師。
その情熱的で包容力のある教授法で、「個々人の健康と幸福」というヨガ本来の目的を世界に広めるべく、精力的にワークショップを開催し、高い評価を得ている。この10月のHealing Yoga Japan(HYJ)主催のセミナーで来日した師に幸福とは何か、幸福になるためのヨガ的な教えについて聞いてみた。
photos by Mori Koda interview by Yoga Journal Japan
special thanks to Healing Yoga Japan(HYJ) and Yoga Studio Jyoti |
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カウストゥッブ・デシカチャー師の第一印象は、丸っこい容姿とにこやかな表情だ。しかし、いったん話し始めると、よどみなく言葉が流れ出る。理論的で説得力があり、ときにユーモアも交えて、聞き手を魅了する。
師はまた、『ヨガスートラ』などの教典を巧みに引用し、現代のライフスタイルに適応させる柔軟性も持ち合わせている。「ヨガは幸せのツール」と言い切る師の教えは、奥深くも実利的である。さあ、師の幸福論にじっくり耳を傾けてみよう。

ヨガ本来の目的は
幸せになること
なぜヨガが何千年も前にインドで生まれたかといえば、人々は苦しみから抜け出し、幸せになりたかったからです。ヨガ本来の目的とは、人々の苦しみを軽減し、より幸せにすることなのです。もしヨガをやっていても幸せでなかったら、それは何かが間違っているのです。ヨガをやっていれば、喜びにあふれ、生き生きしているはずです。ストレスがたまったり、気持ちが落ち込んだり、体に痛みを覚えたりしてはいけないのです。
現代社会の問題のひとつは、不安と恐怖の中で生きることをよしとしていることです。どこにいってもセキュリティシステムがついている。ホテルに行けば、部屋に鍵があり、さらに部屋の中に貴重品を入れるセイフティボックスがある。セキュリティが何層にも重なっています。なぜ私たちはセキュリティが必要なのでしょう。それは、私たちがいつも不安や恐怖心を抱いているからです。
ヨガの目的は、はるか昔から、そうした苦しみを和らげ、幸福感を高めることだったのです。たとえ幸福を得ることができなくとも、少なくとも苦しみを軽減してくれます。なぜヒーリングやセラピーが広がったかといえば、病気は私たちを苦しめ、不幸にします。よく考えていただきたいのですが、ヨガは幸せになるためのツールなのです。もし十分に幸せなら、ヨガは必要ないのです。 |
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身体的な健康が
幸福とは限らない
残念ながら、一般的に私たちは健康というものを身体的もしくは生理学的な視点でしか定義していません。それはヨガの定義とは違います。現代人はジムやフィットネスクラブに行って体を鍛えています。確かに体は元気になっているかもしれませんが、心や感情はどうでしょう。必ずしも健全とは言えません。人々は体のことばかり考えて、人間の心や感情にしっかり取り組んでいません。私たちは体だけで生きているわけではないのです。
ヨガの教えでは、私たちは5つの層から成り立っています。つまり、身体、呼吸、知性(心)、性格、感情です。ヨガの教えでは、その5つの層から人間の幸福を見るのです。現代社会では、身体さえ健全であれば、すべてはうまくいくと信じています。しかし、それは真実ではありません。その証拠に、ある研究によれば、多くのスーパーモデルがうつ症状や不安や恐怖に苦しんでいるのです。外見は完璧でも、彼らは幸福ではないのです。なぜか? 身体面しか見ていないからです。
「氷山の一角」という表現がありますが、海面から出ている先端は見えても、その下に広がる大部分の氷山は見えません。同様に、私たちは外側だけを見て、内側を見ようとしないのです。伝統的なヨガでは、より深い内面に手を差し伸べる多くのツールがあります。ところが、多くの人はヨガをアーサナのことだと考えています。残念ながら、ヨガ雑誌でも、アーサナが大部分を占めています。アーサナはヨガのほんの小さな一部です。ヨガにはもっともっと多くのツールがあり、もっと多くの有効なシステムがあるのです。ですから、私の人生の目標のひとつは、ヨガのすべての側面を知ってもらい、その奥深い世界を見て、体験してほしいのです。多くの人が不安を抱えて苦しんでいる今こそ、ヨガが必要とされているのです。身体的に健康であっても幸せだとは限りません。たとえ病気であっても、もっと深いところで幸せを感じることはできます。なぜなら、幸せとは、私たちの心と関係しているからです。これはとても本質的なことです。 |
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所有物との
正しい関係性
だからといって、家や車、あるいはそれに必要なお金など、物質的な豊かさを捨てる必要はありません。問題なのは、すべてを極端にとらえようとすることです。たとえば、一方で極めて物質主義的で、もう一方では、すべてを放棄しようとする。どちらも正しくありません。重要なのは、私たちが物事とどういう関係を築くかということです。たとえば、ここにテープレコーダがあります。あなたはこれを必要としています。なぜなら、その機能が雑誌づくりの仕事で役立つからです。ここを忘れないでください。つまり、仕事において役立つから必要なのだということです。ファッショナブルとか、隣の人が持っているとか、これで安心できるという理由では、関係性が変わってしまい、そこから苦しみが生まれます。私たち使い手は、製品の機能を基盤とした関係を持つべきなのです。そして、なにより大事なことは、所有物とは適切な距離を保つことです。所有欲が強すぎてはいけません。不幸にも、現代人の多くは、これを持つと安心すると信じています、すると、それなしでは生きていけなくなります。私たちは必要だからではなく、ただ欲しいからという理由で物を買います。両者の間には、所有欲の有無という違いがあるのです。
物質は、あなたに奉仕するために存在します。これを忘れてはなりません。ところが、私たちは物質に奉仕するために存在しているのです。まったく逆です。多くの人たちが、自分たちの心よりも自分たちの車をきれいにしています。私たちがそれらに尽くしてはいけないのです。この関係こそがヨガの教えなのです。
私たちは物質文明の中に生きています。物質は、ものを食べたり、何かを創造したり、生きていくために必要です。それは社会にとっても有用です。しかし、その関係が逆転すると、問題が生じるのです。お金についても同じです。お金は個人そして社会に仕えるものですが、主客転倒で、私たちがお金に仕えているのです。お金や所有物をしっかり管理できれば、幸せになれるのです。 |
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心の平安が
幸せをもたらす
ヨガの伝統に、「心が安らかであるほど、幸せになるだろう」という格言があります。つまり、幸せは、外側の平安ではなく、内側の平安と関係しているのです。私は日本に来ると、多くの時間をこの家(ヨガスタジオ ジョーティ)で過ごします。たとえこんな美しくて静かで素敵な環境にいても、もし私の心が平安でなければ、私は苛立つでしょう。逆に、銀座のような賑やかな場所でも、私の心は平安でいられるのです。つまり、どんな状況でも、内側が安らかであれば、幸福感に浸れるのです。心が平安なら、リラックスします。リラックスしていれば、恐れも不安もありません。つまり幸せなのです。心が平安でないと、ストレスがたまります。ストレスがたまると、安心を得るために何かにすがりつきます。強くすがりつくと、ますます緊張して圧迫を感じます。筋肉も心も緊張したら、どうやって心のスペースが自由に循環できるでしょう。必要なのはインナーピース、つまり、心の平安、内なる安らぎです。サンスクリット語でいうシャンティ(Shanti)です。シャンティとは、lack of agitation (心がかき乱されていないこと)、つまり、安らかな心という意味です。シャンティがあれば、たとえ物事がうまく運ばなくても、静かで落ち着いた気持ちでいられるのです。シャンティがなければ、幸福感は得られないのです。
なぜヨガが私たちに幸せをもたらすのかと言えば、ヨガが私たち内なる安らぎへと導いてくれるからです。これこそがヨガの恩恵です。「ヨガをやってより心が安らかになりましたか、それともストレスがたまりましたか」と私は生徒たちに尋ねます。「もしヨガでストレスがたまるようなら、何かが間違っています、よく考えてみてください」。この幸福感や喜びは、必ずしも簡単にもたらされるわけではありません。たぶん、長い時間がかかります。たとえ、その境地に到達したとしても、それが永遠に続くという保証はありません。ですから、いつも努力しなければいけません。なぜなら、完璧な人間などいないからです。 |
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偉大なる祖父も
完璧な人間ではない
あなたを失望させるかもしれませんが、私の祖父(クリシュナマチャリア師)も完璧であったとは思いません。おそらく、私たちよりか完璧に近かったでしょうし、聡明だったでしょう。
こんな人生のたとえはいかがでしょう。私たちはハシゴの上にいて、上をめざしています。上にも下にも人々がいます。人々は上がったり、下がったりして、いつも変化しています。ところが誰もが頂上には辿り着けません。なぜなら、頂上に何があるのか、誰も知らないからです。つまり、この世に完璧はないということです。私の祖父のような偉大な導師がなぜ偉大なのかといえば、彼が人間として欠点があったにしても、彼は私たちよりもはるかに深い叡智を持っていたからです。ダライ・ラマもインタビューで、「完璧な人間はいない。ブッダですら完璧ではなかった。ゴールとは完璧ではない。ゴールとは自由になることなのです」と語っています。
私たち現代人は、完璧という概念にとらわれています。日本の禅マスターについて何度も聞かされた話があります。ある禅師が何十年も悟りを探し求めていた。しかし、彼はけっして悟りを得ることはできなかった。それで彼は探し求めるのをやめてしまった。すると彼は悟りを開いた……というものです。彼は、ひとつの形(フォーム)として悟りを求めていたのでしょう。つまり、完璧という概念にとらわれていたのです。私たちは、たとえそれが概念であっても執着を捨てなければならないのです。私たちにできるのは、向上することだけです。人生という長い旅路を通して、よりよい方向に進んでいくしかないのです。
祖父が100歳のとき、こういう質問をされました。「あなたはすべてを知っています。他に知るべきことはありますか」と。すると彼は、「私はいまだに学徒で、学んでいます。私が人生について理解できないことはまだまだたくさんあります」と答えたのです。そこが彼の偉大なところです。とてつもない叡智を身につけながら、私にもわからないものがあるという謙虚さを持っていました。なぜなら、それが真実だからです。すべての答えを持っている人はこの世にはいません。グーグルだってすべてに答えられるわけではないのです(笑)。 |
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